2017年07月20日13:57
お寺の法話に、
「地獄と極楽の探訪のお話」があります。
最初に、地獄へ、見物に行ってみると、ちょうどお食事の時間でした。(どこに最初に地獄へ行く物好きがいるんだ~? 怖いもの見たさか?のツッコミはおいといて)
「地獄だから、きっと粗末な食事に違いない」と思ったが、なんと、豪華なおいしそうなご馳走が山盛りではないか!(刑務所の囚人みたいな悲惨な最低限の栄養を摂る、元気過ぎてケンカや逃亡しない程度の食卓だろうな、の予想は外れて)
だが、皆、ガリガリにやせこけているでないか~。これはおかしいなぁ~!あっ、水を飲もうとすると、水が火に変わるように、美味しいものを目の前にしても食べ物を食べることができないのかなぁ?
ぞろぞろと入ってきて、席に着く。驚いたことにテーブルには、ものすごく長いお箸が置いてある。おそらく1m以上あるだろう。
実は、その長い箸を使って食べなくてはならない決まり事なんです。
とんでもなく長い箸をつかみ、必死に、なんとか、自分の口に運ぼうとするが、悪戦苦闘。何度やっても、ご馳走をこぼす。イライラして、怒り出す人も。
それどころか、隣の人が箸でつまんだ料理を奪おうとする輩も。苛々していて不穏な空気が漂い、一触即発ではないか~‼
どんなご馳走が目の前に用意されていても、常に飢えに苦しむ地獄の住人。
次は、極楽(天国)探訪~♪
さて、極楽もお食事の時間。ここも豪華なご馳走がいっぱい並んでいます。そこに楽しそうな表情で、すごく健康そうな住人たちが入ってきて、席に着きました。
「極楽の住人は、さすがに皆、ふくよかで、肌もつややかだな」
と思いながら、見てみることに。
なんと、そこにも同じ長い箸があり、1メートル以上もあるではないか。
「いったい、地獄と極楽の食事風景は、どう違うのだろうか?」
その疑問は、すぐに氷解したのです。
彼らは、長い箸でご馳走をはさむと、「はい、どうぞ」と向かいの人に食べ物を差し出します。
そうすると、相手も、山海の珍味が並んだご馳走を前に、
「有り難うございます。あなたは、何がお好きですか」
と、自分にも差し出してくれます。にこやかに話が弾んで、実に楽しい雰囲気でした。
天国の住人は、たくさん美味しいものを食べることができ、誰もが幸せな顔をしています。なぜなら、みんな、その長い箸を人のために使っていたから。
(長い箸を使って食べなければいけないルールがなければ、普通の箸であれば、地獄の住人は普通に食べられるだろう。逆に天国の住人は、普通の箸でも向かい合った人の口に「あ~ん」と運ぶのか?いや、次元が高いから、境地が違うから、そんな杓子定規のことはしないだろう)
違っているのは、そこに住んでいる人の心だけなんだよ。
「うばい合えば、足らぬ、わけ合えば、あまる」
同じ世界、同じ環境、同じ条件の中でも、感謝、あたたかい気持ちがあるかどうかで、
そこが悩乱の巣窟にもなり、ユートピアにもなる。
「ひげラク画報」さんが描かれた天国と地獄の寓話の絵があります。
http://higeraku.blog115.fc2.com/blog-entry-252.html

著作権フリー(笑)
(自分だけが、がまんすればいい)自己犠牲。
お返し、見返りを求めているのではなく、後が面倒だったり、(人に頼むより、自分がやった方が早い)と思ったり、責任感が強く、要領よくなれなかったりときは、そうなりやすいよね☆
与えても、減らないものは、何かな?
結婚式のテーブルを回ってのキャンドルサービス、法灯、おはようの挨拶、笑顔、親切、知識、経験、etc
ユダヤの古い言い伝えに、
あるところに、小麦をひいて粉にする仕事をする2人の兄弟がいました。
兄は結婚し、たくさんの子供を授かっていましたが、弟は独身で、子供もいませんでした。
仕事が終わると、挽きあがった小麦粉を2人で平等に分け合い、自分の取り分を家に持ち帰ります。
けれども、ある日、弟は考えました。
「僕は兄貴と違って、結婚もしていない。養わなければならない家族もない。これは不公平だ。兄貴は、僕よりも沢山分け前を取るべきだ」
それからというもの、弟は、みんなが寝静まった夜に、お兄さんの倉に、自分の分の小麦粉を少し持って行くようになりました。お兄さんの遠慮深い性格を考え、お兄さんには、決して気づかれないように。
さて、弟がそんなことを考えていた頃、お兄さんも考えていました。
「僕には家族があって、妻も子供もいて満たされている。でも、弟は年老いたときに、誰も世話をしてくれる人がいない。これは不公平だ。弟は、僕よりも沢山分け前を取るべきだ」
そして、お兄さんは、妻に相談し、夜に自分の取り分を少し、弟の倉に持って行きました。弟の遠慮深い性格を考え、弟には、決して気づかれないように。
次の朝、2人の倉にある小麦粉は、一向に減っていません。
与えても与えても減らない小麦粉。2人は、不思議な力を目にし、神に感謝の祈りを捧げます。そして、お互いがしていることを知らず、これを毎日続けました。
しかし、そんなある夜、2人の兄弟は、お互いの取り分を相手の家に持っていこうと歩いていたとき、道の途中でバッタリと鉢合わせしてしまいます。
はじめは驚いた2人でしたが、お互いに何が起きているのかを理解したとき、2人は抱き合い、相手の思いやりに、ただ涙を流しました。
ユダヤの言い伝えによると、神は、抱き合う兄弟に、こう言ったそうだ。
「わたしは、ここに祝福の家を建てる。あなたたちは、その祝福の源となるだろう」
「イエスがパンを分け与え、みなにいき渡った」説法の中で、誰かが、『ふしぎなポケット』の歌のことを持ち出した。「ポケットをたたけば、ひとつのビスケットが割れて、ふたつになるんですか?」と聞いてきたのは、外人神父。(奇跡を起こすのは、主イエスただ一人であるのだから)
そんな時、魔訶不思議でも何でもない、合理的な現象としての事例として、このユダヤ伝承を知ったのであった。
わたしの好きなハルマゲドンの絵があります。救うためにたくさんのの天使たちが降りてくる。光と闇の闘い。

著作権フリー(笑)
光に闇が流れこみ、カオス(混沌)。濁流に降り、翼が折れても、泥水に呑みこまれても、蓮の花が咲く。
十分に頑張っている。愛に気づけば、…、自分の目で見なさい、自分で感じなさい、それも貴重だ、もともとの源、故郷は愛である、我々の存在が愛であることを知れば、未来は拓ける、道は見える、そのままで、願いに生きられる。
京都の三十三間堂の千手観音。これも好きだな。
長い箸で どうやって食べるの?地獄極楽は胸先三寸にあり≫
カテゴリー │オススメ♪力を入れて書いた記事│心理学│育む│仏教│キリスト教
お寺の法話に、
「地獄と極楽の探訪のお話」があります。
最初に、地獄へ、見物に行ってみると、ちょうどお食事の時間でした。(どこに最初に地獄へ行く物好きがいるんだ~? 怖いもの見たさか?のツッコミはおいといて)
「地獄だから、きっと粗末な食事に違いない」と思ったが、なんと、豪華なおいしそうなご馳走が山盛りではないか!(刑務所の囚人みたいな悲惨な最低限の栄養を摂る、元気過ぎてケンカや逃亡しない程度の食卓だろうな、の予想は外れて)
だが、皆、ガリガリにやせこけているでないか~。これはおかしいなぁ~!あっ、水を飲もうとすると、水が火に変わるように、美味しいものを目の前にしても食べ物を食べることができないのかなぁ?
ぞろぞろと入ってきて、席に着く。驚いたことにテーブルには、ものすごく長いお箸が置いてある。おそらく1m以上あるだろう。
実は、その長い箸を使って食べなくてはならない決まり事なんです。
とんでもなく長い箸をつかみ、必死に、なんとか、自分の口に運ぼうとするが、悪戦苦闘。何度やっても、ご馳走をこぼす。イライラして、怒り出す人も。
それどころか、隣の人が箸でつまんだ料理を奪おうとする輩も。苛々していて不穏な空気が漂い、一触即発ではないか~‼
どんなご馳走が目の前に用意されていても、常に飢えに苦しむ地獄の住人。
次は、極楽(天国)探訪~♪
さて、極楽もお食事の時間。ここも豪華なご馳走がいっぱい並んでいます。そこに楽しそうな表情で、すごく健康そうな住人たちが入ってきて、席に着きました。
「極楽の住人は、さすがに皆、ふくよかで、肌もつややかだな」
と思いながら、見てみることに。
なんと、そこにも同じ長い箸があり、1メートル以上もあるではないか。
「いったい、地獄と極楽の食事風景は、どう違うのだろうか?」
その疑問は、すぐに氷解したのです。
彼らは、長い箸でご馳走をはさむと、「はい、どうぞ」と向かいの人に食べ物を差し出します。
そうすると、相手も、山海の珍味が並んだご馳走を前に、
「有り難うございます。あなたは、何がお好きですか」
と、自分にも差し出してくれます。にこやかに話が弾んで、実に楽しい雰囲気でした。
天国の住人は、たくさん美味しいものを食べることができ、誰もが幸せな顔をしています。なぜなら、みんな、その長い箸を人のために使っていたから。
(長い箸を使って食べなければいけないルールがなければ、普通の箸であれば、地獄の住人は普通に食べられるだろう。逆に天国の住人は、普通の箸でも向かい合った人の口に「あ~ん」と運ぶのか?いや、次元が高いから、境地が違うから、そんな杓子定規のことはしないだろう)
違っているのは、そこに住んでいる人の心だけなんだよ。
「うばい合えば、足らぬ、わけ合えば、あまる」
同じ世界、同じ環境、同じ条件の中でも、感謝、あたたかい気持ちがあるかどうかで、
そこが悩乱の巣窟にもなり、ユートピアにもなる。
「ひげラク画報」さんが描かれた天国と地獄の寓話の絵があります。
http://higeraku.blog115.fc2.com/blog-entry-252.html

著作権フリー(笑)
(自分だけが、がまんすればいい)自己犠牲。
お返し、見返りを求めているのではなく、後が面倒だったり、(人に頼むより、自分がやった方が早い)と思ったり、責任感が強く、要領よくなれなかったりときは、そうなりやすいよね☆
与えても、減らないものは、何かな?
結婚式のテーブルを回ってのキャンドルサービス、法灯、おはようの挨拶、笑顔、親切、知識、経験、etc
ユダヤの古い言い伝えに、
あるところに、小麦をひいて粉にする仕事をする2人の兄弟がいました。
兄は結婚し、たくさんの子供を授かっていましたが、弟は独身で、子供もいませんでした。
仕事が終わると、挽きあがった小麦粉を2人で平等に分け合い、自分の取り分を家に持ち帰ります。
けれども、ある日、弟は考えました。
「僕は兄貴と違って、結婚もしていない。養わなければならない家族もない。これは不公平だ。兄貴は、僕よりも沢山分け前を取るべきだ」
それからというもの、弟は、みんなが寝静まった夜に、お兄さんの倉に、自分の分の小麦粉を少し持って行くようになりました。お兄さんの遠慮深い性格を考え、お兄さんには、決して気づかれないように。
さて、弟がそんなことを考えていた頃、お兄さんも考えていました。
「僕には家族があって、妻も子供もいて満たされている。でも、弟は年老いたときに、誰も世話をしてくれる人がいない。これは不公平だ。弟は、僕よりも沢山分け前を取るべきだ」
そして、お兄さんは、妻に相談し、夜に自分の取り分を少し、弟の倉に持って行きました。弟の遠慮深い性格を考え、弟には、決して気づかれないように。
次の朝、2人の倉にある小麦粉は、一向に減っていません。
与えても与えても減らない小麦粉。2人は、不思議な力を目にし、神に感謝の祈りを捧げます。そして、お互いがしていることを知らず、これを毎日続けました。
しかし、そんなある夜、2人の兄弟は、お互いの取り分を相手の家に持っていこうと歩いていたとき、道の途中でバッタリと鉢合わせしてしまいます。
はじめは驚いた2人でしたが、お互いに何が起きているのかを理解したとき、2人は抱き合い、相手の思いやりに、ただ涙を流しました。
ユダヤの言い伝えによると、神は、抱き合う兄弟に、こう言ったそうだ。
「わたしは、ここに祝福の家を建てる。あなたたちは、その祝福の源となるだろう」
「イエスがパンを分け与え、みなにいき渡った」説法の中で、誰かが、『ふしぎなポケット』の歌のことを持ち出した。「ポケットをたたけば、ひとつのビスケットが割れて、ふたつになるんですか?」と聞いてきたのは、外人神父。(奇跡を起こすのは、主イエスただ一人であるのだから)
そんな時、魔訶不思議でも何でもない、合理的な現象としての事例として、このユダヤ伝承を知ったのであった。
わたしの好きなハルマゲドンの絵があります。救うためにたくさんのの天使たちが降りてくる。光と闇の闘い。

著作権フリー(笑)
光に闇が流れこみ、カオス(混沌)。濁流に降り、翼が折れても、泥水に呑みこまれても、蓮の花が咲く。
十分に頑張っている。愛に気づけば、…、自分の目で見なさい、自分で感じなさい、それも貴重だ、もともとの源、故郷は愛である、我々の存在が愛であることを知れば、未来は拓ける、道は見える、そのままで、願いに生きられる。
京都の三十三間堂の千手観音。これも好きだな。